祖父母に可愛がられ、のびのび育った少年時代
東京都品川区で、3人兄弟の末っ子として生まれた菰田さん。現在は大都市に発展した品川ですが、少年時代にはまだまだ空き地や原っぱなど遊び場があり、どじょうをすくったりしていたそうです。近所には食肉の卸市場もあり、食べることを身近に感じていました。母親は料理があまりうまくなかったのですが、次兄がインスタントラーメンやしょう油味のスパゲティといったオリジナルなおやつを作ってくれ、それを手伝ったのが料理との出合いです。祖父母も近くに住んでおり、とても可愛がられて育ったとか。
「祖父母の家は、わが家とは異なり、何でも手作りしていました」。おばあさまに習ってさつまいもを裏ごししたり、かつお節を削ったりした体験が基になり、中学校に進んだ頃には、自然と料理の道を志すようになりました。
高校を卒業すると、迷うことなく大阪あべの辻調理師専門学校に進学。このときはまだ、「一生を中国料理に捧げる」とは思っていなかったとか。「当時よく見ていたテレビ番組『料理天国』(TBS系)の影響もあって、フランス料理をやってみたい。イタリア料理もかっこいいなんて思っていました」と笑います。
中国料理ひと筋の人生を決めた、陳建一さんとの出会い
専門学校に入学した菰田さんは、中国料理を専攻します。「当時は深く考えていたわけではないのですが、実習をしてみて、日本人だから和食はもちろんおいしい。フランス料理やイタリア料理といった洋食も、華があるしおいしい。でも中国料理は、それらを超えてものすごくおいしいと感じました」。
そんな菰田さんの人生を変えたのが、特別授業の講師として来校した陳建一さんでした。初めて間近に見た陳さんのプロの技術は、19歳の菰田さんの想像を超越したもので、「この人は天才だ」と思ったそうです。
専門学校を卒業し、憧れの陳さんのもとに就いたものの、もちろん初めから料理を任されたわけではありません。そこで菰田さんが取り組んだのが、ひとつひとつの仕事の意味を突き詰めることでした。たとえば買い物に行くときも、言われたものをただ買うのではなく、素材を学ぶ機会と捉えて吟味し、なぜその食材を選んだのか理由を明確にする。そういった地道な作業を積み重ねてきたのです。「当時はインターネットもありませんでしたので、勉強といえば本を読むか、仕事を通じて学ぶか。学校でいう予習・復習を料理に置き換えると、予習は本などで知識を得ること、復習はそこで得た知識を基に実際にやってみること。学校の勉強は、予習も復習もまったくやらなかったのに、料理だと継続できるものですね(笑)」
朝早くから夜遅くまで仕事が続く現場も、「最初は今日一日を生き抜くことでいっぱいいっぱいでしたが、今考えるとまったく辛くなかった」そうです。