特集記事

料理研究家 きじまりゅうたさん

インタビュー
2020年09月22日
料理人をはじめ、料理にまつわるスタイリストやフードコーディネーター、カメラマンなど、食を支えるクリエイターのインタビューをお届けする連載。料理への向き合い方、仕事観、読者のスキルアップのためのノウハウなど、食を支え、未来を描こうとする様々な職種の方々の料理に対する考えや思いを伺います。

祖母は、料理研究家の村上昭子、母は同じく料理研究家の杵島直美という、料理研究家一家に生まれたきじまりゅうたさんは、物心がついた時から、祖母や母が自宅で行っていた撮影現場を遊び場にする子どもでした。現在は、テレビ番組に多数出演する人気料理研究家となり、「ここ2、3年で『家業を継いだ』と言えるようになりました」というきじまさんに、三代続く「杵島家」に受け継がれてきた料理研究家としての心得を聞きました。

「消費されて終わるだけ」という師である母の言葉

料理研究家である祖母や母の姿を見て「料理の仕事をしたい」ときじまさんが思うようになったのは、高校生の時でした。しかし1990年代の中頃、世間ではまだ男性の料理研究家はほとんどおらず、「料理ではなく会社勤めをしないさい」と周りから言われたこともあり大学に通いながら別の道を探しはじめます。

大学2年生の時に先輩に誘われ、裏原宿系のストリートファッションブランドの立ち上げにディレクターとして参画します。しかもそのブランドは、若者のニーズを見事につかんで大ヒット。大学卒業後もディレクターを続けますが、立ち上げから3年ほどでストリートファッションバブルが弾け、売り上げが下がり始めます。

「ブームは怖いなと思いました。そしてちょうどその頃、2004年に祖母が亡くなりました。葬儀の席で、祖母と仕事をされていた編集者さんやカメラマンさんたちから『いつになったら料理に戻ってくるんだ?』と言われたんです。その時、自分のできることは、やっぱり料理なんだと思うようになったんです」

「料理研究家を目指すなら祖母と母と同じことをしてもしょうがない」ときじまさんは、祖母・昭子さんも母・直美さんも持っていなかった調理師免許を取るため、仕事をしながら夜間の調理師専門学校に1年間通います。

「例えばこの料理はこう切るという、祖母や母から教わってなんとなくやっていたことを、理論的に学べたのは大きかったです。逆に、経営についての授業は、すでにアパレル会社で経営側にいたので、ちょっと退屈でした(笑)」

大学卒業後もアパレルメーカーに勤めながら、夕方から調理師専門学校に通い、夜は居酒屋でアルバイト。さらに母・直美さんの撮影のアシスタントにも入っていたというきじまさん。「さらにきちんと友だちとも遊んでいました(笑)。当時はやりたいことがたくさんありすぎました」。

 

きじまさんが料理研究家を目指し母・直美さんの元でアシスタントをしていた2000年代中頃、料理界にブロガーブームがやってきます。ヤミーさんやSHIORIさんといった現在も一線で活躍している料理家がブログで人気になり、雑誌やテレビなどで取り上げられるようになります。

料理研究家を目指すきじまさんにとって「俺もこれくらいできる」と、独立心が強く芽生えていましたが、直美さんから「まだ出ない方がいい。今、何とかこなせても一生は続けられないから」と、諭されたといいます。

「祖母のアシスタントからスタートした母は、祖母経由で来た仕事に、自分の実力が伴っていないことを分かっていながら引き受け、とても苦労したそうです。実力がないのに世に出ると消費されて終わりになる。消費されないだけの力を蓄えてからでないと意味がない。そう教えてくれた母に、ものすごく感謝しています」

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撮影/大平正美 取材・文/江六前一郎

きじまりゅうたさん
1981年、東京都出身。村上昭子氏を祖母、杵島直美氏を母にもち料理研究家一家で育つ。大学在学中にアパレルメーカーに就職し、20代前半はブランドディレクターを勤める。その後、母・直美氏のアシスタントとして経験を積み、28歳で独立。男子料理ブームの波に乗り、雑誌や書籍へのレシピ作成を中心に活動を始め、NHK「きょうの料理」に29歳で初出演。2016年からはNHK「きじまりゅうたの小腹がすきました」がスタートし、現在は続編シリーズ「きじまりゅうたの小腹すいてませんか?」に出演中。男性のリアルな視点から考えた「若い世代にもムリのない料理」の作り方を提案している。

 

ブログ「きじまりゅうたのダイドコログ」 http://www.daidokolog.com/

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