家庭科の授業で同級生に手本を見せていた料理少年
茨城県の常陸太田市で、姉と妹に挟まれた真ん中の、たったひとりの男の子として、おっとりと穏やかな少年に育てられた下村さん。両親は百貨店を営んでいたため、幼少時代から家にはお手伝いさんがいて、何不自由なく暮らしていたと言います。両親は愛媛県出身。料理が好きでアクティブな母親は、瀬戸内海の海の幸を存分に使ったちらし寿司など、茨城ではめずらしい愛媛ならではの郷土料理を作っては、ご近所におすそわけしたり、主婦仲間に教えたりしていたそうです。
「また、母は休みの日には、フレンチトーストなど子どもの好みに合ったしゃれた料理を作ってくれました」と下村さん。ところが下村さんが小学校に上がったころ代替わりしたお手伝いさんが作るのは、しょうゆを用いた、地味な茶色のお惣菜ばかり。「子ども心にも、食欲がわかない料理は受け入れられなかったのです(笑)」と下村さん。小学3年生になるころには、レストランで食べたカニピラフを再現するなど、料理を楽しみ始めました。地元のソフトボールクラブに入り、練習後にチームメイトに手料理を振る舞ったり、家庭科の授業では、フライドポテトやオムレツの作り方を、先生と一緒に同級生に教えたりしていたそうです。「他にオムレツを作る同級生などはいませんでしたし、フライドポテトは、母親のやり方をまねて二度揚げするなど、料理へのこだわりを持った小学生でしたね」。この頃にはもう、将来の道は自ずと決まっていたのかもしれません。
イタリア料理にワーキングホリデー。迷い多き青年時代
今ではフランス料理ひと筋に邁進してきた「フレンチの雄」という印象の下村さんですが、大阪・辻調理師専門学校を卒業して最初の職場に選んだのは、なんとイタリア料理店でした。その理由を、下村さんはこう語ります。「専門学生時代から、ゆくゆくは自分の店を持ちたいと考えてはいましたが、東京で店を開くことは、まったく頭にありませんでした。いずれは、生まれ育った地元の茨城でとイメージしていました。当時はまだ、茨城ではオートキュイジーヌのフランス料理が受け入れられる環境ではありませんでした。フランス料理を極めたいと思いながらも、街場のイタリア料理店が現実的だと考えたのです」
それでも、休みをもらうたびに、見習いの安い給料を削って、フランス料理の名店を食べ歩き、フランス料理への情熱が消えることはありませんでした。卒業した年の夏休みには、神戸のフランス料理店で働くかつての仲間を訪ね、その際にいただいたフランス料理が非常にすばらしく、「やはりフランス料理だ」と、人生の舵を切ります。フランス料理人としてのキャリアをスタートして店での約3年間の修行は、想像を絶するほどにきつかったとか。「ここから逃げ出すために、オーストラリアのワーキングホリデーのビザも取得していましたから(笑)」。