ぼんやりと灯った明かりのなか、ポコポコと沸く鍋からは水蒸気が立ちのぼる。エアコンの乾いた暖かさとは違って、湿度のあるやわらかい暖かさは、炊事をする祖母や母親を思い出すようで、どこか懐かしい――。
親密な空間で過ごす「菓子屋ここのつ」での2時間は、猛烈なスピードで通り過ぎていく都会の日常から切り離されたように、ゆっくりと時間が流れていきます。キッチンというよりも台所と呼びたくなるような場所で、ゲストを迎える支度をするのは店主の溝口実穂さんです。
長い修業期間が独立に必要とされる菓子業界にあって、京都と東京で2年半の修業を経てすぐに「菓子屋ここのつ」を開き、“和の食材を使った菓子のコース”という独自のスタイルを貫きながら、SNSで人気店になりました。溝口さんの活動を支える「好きを貫く姿勢」について聞きました。
毎月1日の朝8時に茶寮の予約をメールで受け付け始めるが、わずか1分ですべてが埋まってしまう。便利な予約フォームが簡単に導入できる時代だが、“わざわざメールを送ってでも来たい”というゲストに来て欲しいという。
和菓子によってとりこぼされた菓子をも「糧菓」で表現する
月の半分、昼と夜に開かれる茶寮は、溝口さんとゲスト、6名だけの小さな小さな会。料理と菓子の間のような「糧菓(りょうか)」が5皿と、それに合わせたお茶が出されます。
四季のなかで暮らす私たち日本人は、移り変わる季節に合わせて、その季節でとれる食材を体が欲します。たとえば、寒い冬に体を温める食材を食べたくなるのは、煮炊きに適した根菜類だったり、暑い夏は体を冷やすために水分が多い夏野菜を食べてきました。そういった“季節の和の食材を使った菓子”が「糧菓」であり、溝口さんの表現したいものだといいます。
「去年(2020年)、書籍の制作をご一緒した陶作家の安藤雅信さんが、私のお菓子を『糧菓』と名付けてくださったんです。一般的に云われる『和菓子』では収まりきらない思いも、『糧菓』であればより伝わりやすくなったと感じています」
和菓子と聞いて多くの人が思い浮かべるのは、練り切りや羊羹のような「上生菓子」や、大福やお団子のような「朝生菓子」といった甘味の菓子。しかしそこには、大半は季節の食材は使われておらず、季節は着色料によって色づけられています。季節の移ろいは、食材の味ではなく形で表現されている。そもそも和菓子というジャンル自体が、洋菓子に対する言葉として生まれたものでもあります。その時に取りこぼされた和の菓子も拾い上げて、きちんと伝えていきたい。そんな思いを秘めていた溝口さんにとって「糧菓」は、すぅっと舞い降りてきたかのような必然的な言葉でした。
蒸した干し柿に豆乳、パッションフルーツ、奄美大島のキビ砂糖で甘味を加えている。温かい豆乳のスープと蒸したての干し柿という冬らしいほっこりとした味わいの中に、パッションフルーツの苦味が春を感じさせる「糧菓」らしいひと皿。
取材スタッフに対して丁寧にお茶を入れてくれた溝口さん。ここのつの世界に引き入れる儀式のようでもあり、時間が流れる速さを変える魔法のようでもあった。