太陽の光を浴び、黄金色に輝いた大地のような器。そして、そこに盛られた生命力あふれる食材たち。この色を見れば「これは、ケイさんの器だ」とわかる。Keicondoさんの作品には、そんな存在感があります。
「この色は、26歳から2年間暮らした、南米ボリビアの大地の色です。南半球では秋にあたる2月のカルニバル(カーニバル)では、黄金色の大地で原色のあざやかな衣装を着たたくさんの人々が楽しそうに踊っていました。その景色がこの器にあるんです」。Keicondoさんは、ゆっくりとした口調で、ひと言、ひと言を確認するように話しはじめます。
Keicondoさんの器があるのは、渋谷の居酒屋「オープンフィッシュ」(上の写真は、オープンフィッシュの刺身盛り合わせ)や清澄白河のモダン中華「O2」、喜多見のジビエとカレーの店「ビートイート」など。地方では、新潟・南魚沼の「里山十帖」、栃木の星野リゾート「リゾナーレ那須」など。
楽しすぎて趣味をやめた陶芸学校時代
「日々の生活に気を配っている方は、その日の気分でお料理や服、髪型などを選びますよね。料理をされる方は、信頼する農家の方から野菜を買ったり、服も好みの作家さんのものを選ぶことができます。そのように、自分の好みの器を、その日の気分で選んで生活を彩る。そうなっていったらいいのになぁと思って制作を続けてきました」
江戸時代中期(18世紀後半)に始まった陶器の産地である茨城県笠間の陶芸家の家にKeicondoさんは生まれました。笠間焼の陶芸家でエチオピア人を父に、同じく茨城県の伝統工芸・結城紬を学ぶ日本人を母に持つ、笠間焼の陶芸家。「さまざまな文化をミックスしているのが、僕のアイデンティティです」と、Keicondoさんは言います。
しかし、子供のころから、陶芸家になろうという思いはなかったといいます。子供の頃からモノづくりに興味を持ちながらも、陶芸家の父が苦労する姿を見て、「笠間で器を作っているだけでは生活できない」と考えたからです。Keicondoさんは、大学卒業後、営業職に就職します。
しかし、やりたいことが見つからぬまま務めていた職場を、わずか1年でドロップアウト。たいして好きでもないことをしてお金をもらうなら、父と同じ苦労をしても好きなことをしていた方がいいのではないか――23歳のKeicondoさんは、茨城県窯業指導所(現・茨城県立笠間陶芸大学校)に入所し陶芸を学びはじめます。
「変わらない伝統は美しいですが、そのなかで生き残っている人は、ごく一部です。今は、時代に合わせて、使い方の提案、そしてその提案する場を作れる人たちが生き残っているように感じます」とKeicondoさん。
「1年半、ろくろの前で練習をしていたんですが、初めからずうっと楽しかったんです。しかも、その楽しさはそれまでとはまったく違うもの。サーフィンやスノボード、車など、20代前半の男の趣味はひと通りしていたのですが、そういうものはやらなくなったんです。作陶が楽しくて、サラリーマン時代のように趣味で毎日のストレスを発散する必要がなくなったんだと思います」