何も知らずに入った料理の世界
大学ではアメリカ文学を専攻し、卒業後は劇団で芝居をしていたという枝元さん。料理とは無縁の世界にいたものの、子どもの頃からモノ作りが好きで、生活のためにと選んだアルバイト先は無国籍レストラン。劇団でも賄いやイベントでの料理を担当するなど、知らず知らずのうちに料理の世界へと導かれていました。
「初めて自分の名前で料理の仕事をしたのは、32歳のとき。女性週刊誌の料理撮影でした。アルバイト先のレストランで一緒に働いていた女の子がライターもやっていて、その仕事を紹介してくれたんです。私は料理の学校には行ったことがなくて、どうやったら料理家になれるかを教わったことも考えたこともなくて、その仕事も何にも知らないでやっちゃったんだけどできちゃった(笑)」
気負わない姿勢がうまくいったのか、やはり才能があったのか、最初の仕事をきちんとこなして信頼を得た枝元さんは、次にレギュラーのページを任されます。
「一カ月分の料理カレンダーっていう企画で、週刊誌大の4ページ分に30日分の料理を載せるから、写真はすごく小さかったんです。それから徐々にほかの仕事ももらうようになって、ラッキーなことにそのまんま続いちゃって。働いていたお店でもお菓子はあまり作ったことがなかったから『初めて作ってみたんですけど食べますか?』っていって試食してもらって、OKだったらオーダーしてもらうっていう感じでした。今考えてみるとすごい度胸ですよね(笑)」
トライ&エラーで経験を積む
料理は独学。その分、自分で考え、解決しながらやってきたという枝元さんは、料理学校に行かなかった自己流の料理法をこう分析します。
「学校に行くと『うまくいく方法』っていうのを習うんだと思うの。成功道とでもいいのかな。でも、私はそれを習っていないので、しょっちゅう失敗していたから『これをやったら失敗する』っていうことだけがわかるの。失敗すると手痛いから、じゃあどうやったら失敗しないんだろうって考える。『道』じゃなくて視野が広がったのが、良かったと思う。いや、良かったり悪かったりかも知れないけどね(笑)」
料理学校とは違う形で、食べ物への造詣を深めていった枝元さん。劇団ではたびたび海外公演があり、さまざまな国の食べ物に触れる機会があったといいます。また、アルバイトをしていたレストランでの経験も、料理家としての枝元さんの基礎を形作るひとつとなっているようです。
「小さい無国籍のレストランだったけど、一緒に働いていた人がどこかに旅行に行くと、怪しげなスパイスをお土産に買ってきてくれたりするの。サフランとかベニバナだけじゃなくて、『アマゾンの干魚』みたいな、無理無理! 使えない!って、ものもあったりして(笑)。今から30年以上前のことだけど、お店には既にフレッシュのパクチーとレモングラスとバイマックルーがありました。知らない食材ばかりだったから、ひとつひとつ匂いを嗅いだり味見したりしながら料理に使っていました」
自分の料理をどんな形で仕事にする?
流れに身を任せる形で料理家になった枝元さんですが、キャリアを重ねた今、料理家になりそれを続けていくには、受け身の姿勢では難しいと話します。
「どういうイメージをもって料理家になりたいかにもよるけれど、自分の仕事っていうのがどういうもので、何のためにそれをやって、どうやってお金に換えていくのかまで考えていかないと、料理を仕事にはできないと思うの。昔だったら学校に行ったらなれるとか、あの先生に師事したらなれるとか、決まった道もあったかもしれないけれど、今は誰かに教わったり他人の成功体験を真似したりしてもダメかもなって、思うの。私がこの仕事を始めたころはまだバブルの余韻もあったから、料理本や雑誌が続々と出版されていたけど、今はレシピならネットでいくらでもタダで探せるし、これまでイメージされてきた料理家や料理研究家の仕事は、プロとしてお金になる形では減っていくかもしれないよね」
機械や人工知能の発達で、ありとあらゆる仕事がなくなるとささやかれる今、料理家の仕事も変化していくはず。そのなかで料理家になるには、自分の仕事を俯瞰で見つめ、どんな仕事をどう作っていくかと、考えることも、多岐に渡る仕事のうちだと枝元さん。