少年の人生を決めた「鮑のステーキ」との出合い
愛知県ののどかな地方都市で、3人兄弟の末っ子として生まれた岸田さん。小学校時代、両親が共働きで忙しかったため、兄弟で家事を手伝うことになったのが料理を始めるきっかけでした。「兄ふたりは料理にまったく興味を持たず、僕だけが積極的に料理をしていました。すると母親に感謝される。それが嬉しくてどんどん料理にはまった一面もあります。でもまぁ、生まれつき向いていたのでしょうね」。
食への関心が深まるにつれ、食をテーマにした書籍や漫画を手に取るようになりました。なかでも心を奪われたのは、三重県の志摩観光ホテル「ラ・メール」で、当時総料理長を務めていた高橋忠之さんと、第11代目帝国ホテル総料理長の村上信夫さんの対談です。「高橋さんは、29歳の若さで料理長に就任し、地元の食材を使った料理を、東京やパリといった大都市ではなく、志摩から世界に発信して評価されていました。すごいな、料理でそんなことができるのかと、高橋さんの活躍に憧れました」
そんな少年をさらに熱くさせたのが、漫画『美味しんぼ』(小学館)で描かれた「鮑のステーキ」です。「この料理をどうしても食べてみたい」という岸田さんの強い願いが叶い、家族旅行で志摩観光ホテルを訪れたのは、中学生のときのこと。「これまで食べたことのないレベルのおいしさ」だった鮑のステーキを味わい、憧れの高橋料理長の姿を見た岸田さんは、この旅行で「いつか料理人としてここで働きたい」という将来の目標がはっきり定まったと言います。
いつ何をするべきか。目標から逆算して今やることを選ぶ
小学生の頃から料理人としての未来を思い描き、中学生では働きたい職場まで具体的にイメージしていた岸田さん。迷うことなく料理の専門学校に進学します。「学校を卒業したら、志摩観光ホテルのラ・メールで高橋料理長と働きたい」という目標に向かって、在学中に夏休みを利用してラ・メールでアルバイトをするなど、着実に歩みを進めました。
ラ・メールで働き始めたときには、「30歳で料理長にならなければ」という次のステージが見えていたとか。「高橋さんは29歳で料理長になっています。また、高橋さんから直接言われたわけではありませんが、『料理人は30歳で料理長にならなければ先はない』という言葉もあります。30歳という年齢が、常に頭にありました」
「ラ・メール」では憧れの料理長のもと、地元の食材が持つ可能性を引き出した独創的なフランス料理を習得しました。一方で、30歳で料理長になるには、フランス料理の礎となる古典料理をより幅広く学びたいという思いもあったそうです。次のステップに進もうと、休みのたびに上京してはいくつも名店を食べ歩き、「ここで働きたい」と感じたのが、東京・恵比寿(現在は銀座に移転)の「カーエム」でした。
ここでの修業時代は、競争社会のなかでの下積み生活でしたが、岸田さんの目標が揺るぐことはありませんでした。フランス料理人として生きるからには、フランスでしっかり修業したい。滞在に3年間を充てるなら、30歳で料理長になるには27歳で渡仏していなければならない。となると26歳までにはフランス語を勉強したい。そう計算して、ハードな生活にもかかわらず、週に一度は語学学校に通ってフランス語を勉強していたそうです。
金銭的なリスクより、時間や機会の損失リスクが怖い
こうして2000年、26歳の岸田さんはフランスへ飛び立ちました。まだ駆け出しの若い料理人だったゆえ給料も高いとは言いがたく、コツコツと貯金した全財産はおよそ30万円。フランスのシェフとのネットワークもなく、働き口の紹介もなく、片道切符だけを持った旅立ちです。
「せっかくフランスに行くのだから、古典料理や郷土料理といったいろいろな料理を学ぶのはもちろん、カジュアルなビストロから星付きの高級店まで、さまざまな店のオペレーションも見たいと考えました」。
「ネットワークに頼るのではなく、この店やシェフから学びたいという場所を自分で選びたかった」という岸田さんがまず始めたのは、上京した時と同じく、気になるレストランの食べ歩きです。飛び込みで働き口を獲得した、地元の人で賑わうパリのブラッスリー「シェ・ミシェル」を皮切りに、パリの一ツ星レストラン、二ツ星レストラン、南仏の三ツ星オーベルジュなどさまざまな業態を経験。ついにパリ16区の「アストランス」(現在三ツ星、当時一ツ星)のシェフ、パスカル・バルボ氏に出合いました。