
自分は職人だから、たくさんのパンを作りたい。そんな伊原さんがパンの種類と数を増やすことに加えて取り組んだのが、自社ホームページの制作でした。ツォップがリニューアルオープンした2000年は、社会にインターネットが普及し始めた頃です。「専門知識を学んだわけでもなく、手探りで開設した自作のホームページで、デザインもおしゃれとはいえず、今振り返ると恥ずかしいクオリティ」と伊原さんはいいますが、当時は個人営業の小さなお店が、ホームページを持っていることは、ほぼありませんでした。このホームページも、多くのパン好きに知ってもらうきっかけのひとつになりました。
さらに「パン焼き小屋ツォップ」の経営が軌道に乗ると、今度は細長い階段を登ったお店の2階に「時を忘れる空間 ツオップ」という意味のカフェスペース「Ruheplatz Zopf(ルーエプラッツ ツォップ)」をオープン。特に焼き立てのパンの盛り合わせを主役にした、品数豊富な朝食メニューが話題を呼びました。「朝時間を優雅に過ごすことができる」と、朝7時と早い時間から営業しているにも関わらず、予約で満席になることも。ご近所さんのみならず、全国から朝食をとりに訪れるゲストが後を絶ちません。サンドイッチやスイーツパンなど、お店とは異なるアレンジをしたカフェ限定のパンメニューが、多くのファンを魅了しています。
「これまでにない薄暗い店舗を作ること、膨大な数のパンを作ること、ホームページを作ること、朝食に力を入れたカフェを作ること。どれも考えなしのまま取り組みましたが、最初にやったから意味がありました。今振り返ると、やっぱりどんなことでも先行者利益はあると思います」
ひとつのことをやり続ける“職人”の強さ
ツォップがリニューアルオープンした2000年と比べると、売り上げはかなりアップしました。しかし「売れたのはたまたま。こうすれば損しない、こうすれば売れるなんて、分かる方法はないよね。近ごろの人は、最短距離の正解を探しすぎていると思う。今でも不安を感じることはあるけれど、自分の場合は、職人として選んだ道を進むことしか考えませんでした」と伊原さんはいいます。
全国的に名の知れたお店になった今でも、「今日はひとりもお客様が来てくれないかもしれない」と心配になるとか。それを振り払うかのように、毎日緊張感を持って、厨房に立っているそうです。
「ちょっとした不注意で、食中毒を発生させてしまったり、自分やスタッフが不祥事を起こしてしまったりすれば、お客様はその日からいらしてくださらないでしょう。そうでなくても、自然災害などが起こるかもしれない。それを踏まえた上で自分ができることといえば、お客様に喜んでいただけるパンを一生懸命焼くことなのです」
約300種類ものパンを毎日しっかりおいしく焼き上げること。「パンはやっぱり焼き立ての温かいものが、味も香りも一番だから」と、なるべくすべてのお客様が焼き立てのパンに巡り合えるように、15分ごとに焼き立てのパンを出すこと。なかでも看板商品のカレーパンは、1日に50回以上に分けて揚げ、いつでも揚げ立てのものがお客様に届くようにしているとのこと。
これらを突き詰めると、お客様のために手間を惜しまず、できたてのおいしいパンをたくさん提供するという、誰にでもできるけれど継続が難しいことを、職人としてひと筋に追求してきた伊原さんの半生が浮かび上がります。
「やって来たことをやめなかったのは、ここでやめたらもったいないという“ケチな性格”だからかも(笑)。ただ、今振り返ると、これだと思ったひとつのことをやり続けたことが、結局は近道でした」
ついに見つけた“一軒最強”の自分スタイル
現在の伊原さんは、店の規模を拡大するのではなく、今ハマっている趣味の釣りに時間を取るなど、ワークライフバランスを大切にしています。海外を含め、支店を出店するオファーはひっきりなしにありますが、伊原さんらしい人生を考えると、すべてに目が行き届き、職人として納得がいくまで腕を振るえる「店舗は一軒しか持たない」生き方が最強とか。
「職人の世界は厳しいですよ」と伊原さんが笑うように、必ずしもすぐに目に見える成果につながらないのが、パン職人に限らず職人に共通した厳しさです。「だからこそ、パン職人として幸せな生き方を自分自身が体現することで、次の世代を応援したい」
他店のパン職人からも「店長」の愛称で慕われる伊原さん。「ほんとは50歳で早期リタイアしたかったのに」と言いますが、伊原さんがリタイアできるのは、どうやらまだまだ先になりそうです。