
食べる経験を積み、食べ手としての意識を磨いた子ども時代
サルボさんが大切にしている『赤毛のアンの手作り絵本』。アンがマリラに習ったような、料理や手芸を学べる手作り本です。カナダの家庭料理やお茶会に心惹かれ、その本を見ながら料理やお菓子作りをしていたというサルボさんですが、もともとは作るのではなく食べることが好きだったといいます。
「母や母方の祖母、母の姉妹が揃って料理好き。母や祖母が作る日々のご飯は和食でしたが、ハンバーグやミートローフ、ローストチキンなどの洋食の日もあり、さまざまな料理やお菓子を作って食べさせてくれました。料理はもちろん、作ってくれる風景、音、匂いが大好きで、家庭人として料理をする母や祖母に憧れていました」
またご両親は、サルボさんと妹さんを連れて、頻繁に外食。これは勉強を強制しなかったご両親から、唯一厳しくしつけられた“食べるレッスン”。由緒あるレストランに頻繁に連れられ、幼稚園に入る前からナイフとフォークが使えることを求められました。
「大事なのは形式だけじゃなくて、おいしい物を作ってもらってそれを口にする食べ手としての意識。食べたいものを食べてもいいって言われるのですが、自分が取ったものを残すと怒られる。“食べたいけれど、小さくしてもらえませんか?” まで自分で言わなければなりません。スープを注いでもらうときは、“半分でお願いします”とか“もう要りません”と伝える。そうしないと、一度注がれたものはすべて飲み干さなければなりませんでした」
自分にしかできないことって?
料理の世界に入ったのは、20代の終わり。料理家になろうと思ったことはなかったものの、料理の世界には自分の意志で足を踏み入れたときっぱり。大学卒業後は、好きだった英語を活かして貿易の仕事をしていましたが、多くの女性が結婚か仕事のどちらを優先するかを考える時期に、自分の人生を見つめ直したといいます。
「財閥系メーカー本社にいて、やりがいもありました。でも、その職場は女性の総合職がなく、女性はほぼみんな20代後半で寿退社。仕事を続けたくても限りがあり、自分はどうしようかと、ずっと悩んでいました。結婚の話があったり、仕事も面白かったりしたのですが、代わりが利かない私にしかできないことって何があるんだろう?と考えたときに、“食べることが好き”ということしか思い浮かびませんでした」
身近で料理の仕事をしていた唯一の存在が、本格的なフランス料理の教室を営んでいた叔母様。ずっと英語が好きで、フランス語には拒絶反応すら抱いていたというサルボさんが、フランス料理と結びついたのはこのときでした。会社を辞め、叔母様に弟子入りしたのが27歳。遅いスタートだったと振り返ります。
「最初に叔母は“厳しいわよ”と言っていたのですが、本当にその通りで(笑)。求められるように動けないと、生徒さんがいる前でも怒られる。身内だからこそ、余計に厳しくされました。でもその分、料理を体で覚えることができた。子どもの頃から食べさせてきてもらったような料理を、実際に叔母が作り、レシピ化して、家でも作れるようにしているのを間近で見て、すごく勉強になりましたね。そのうち、これからずっとフランス料理の世界にいるなら、その本場や現場を知るべきじゃないかという気持ちが芽生えてきて。その先どうしたいとか遠い先のことを考えたわけじゃなく、そう思ったら前に突き進む気持ちになって、叔母に相談しながらアシスタントの合間に派遣社員として働き、渡航費用を貯めました」
一流のフランス料理の現場に身を置く
30歳でフランスに渡り、ル・コルドン・ブルー・パリ(以下:コルドン)に入学。それは、学校の授業が目的だったわけではなく、フランスで働くため。年齢、性別、語学力、伝手、そのすべてで満足な条件を持ち合わせていなかったと話すサルボさんは、どういうステップを踏めばよいかを模索。料理学校に入ればビザが下り、コルドンでは上級コースを終えると研修制度の資格がもらえることがわかりました。
「最初は料理のコースをとっていたのですが、フランス料理は日本で叔母に厳しく教えられていたので新しく得られることはあまりなく、途中でお菓子に変更しました。それまで料理優先でフランス菓子をしっかりやってこなかった分、せっかくなら苦手なお菓子を勉強しようと。でも、実は学校で料理やお菓子を習うことが、私の価値観とはちょっと違っていて。コルドンで教わるレシピは、あくまでコルドンのもの。それよりは、レストランを食べ歩いたり、食材を買って、自分で切って食べてみたり料理してみたりっていうことの方が、私には意味がありました」